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ダニエル・ロートとラ・ファブリク・デュ・タン ルイ・ヴィトンが見事に仕上げた後継モデル。

まず、ダニエル・ロート トゥールビヨン ローズゴールドで目を引くのはブラックポリッシュ仕上げである。時計を裏返してサファイア製シースルーバック越しにCal.DR001をのぞくと、スースクリプションモデルのクローズドケースバックから進化した点が分かる。そして大きなブリッジのコート・ド・ジュネーブと対比する形で、曲線的なブリッジには完璧に仕上げられたブラックポリッシュが施されている。
数週間前に新しいトゥールビヨン ローズゴールドの紹介文を書いたときには、その仕上げのレベルをあまり理解していなかった。レンダリング画像だけではその精巧さを感じ取るのは難しい。だが実物を目の当たりにすると、その完成度の高さがすぐに分かる。

同じ感動は、ケースやダイヤル、そしてトゥールビヨンに組み込まれたすべての部品にも表れている。正直に言えば、かなり地味な自分の好みからは大きく外れているものの、これほど卓越したウォッチメイキングとクラフトマンシップの最高峰を示す時計はそう多くない。確かに、エリプソカーベックスケースへの揺るぎないこだわりや古風なデザインは、ダニエル・ロートのコレクターにとって魅力の一部なのだろうが、これは間違いなく好みが分かれるデザインだ。
しかしダニエル・ロート トゥールビヨン ローズゴールドとそのCal.DR001に込められたクラフトマンシップとウォッチメイキングは、誰もがそのよさを認めるだろう。

本作は昨年のスースクリプションモデルと大きく異なるわけではないが、明らかに進化を遂げている。5Nのケースとダイヤルは、より温かみを感じさせる仕上がりになっている。両方を並べてみるとトゥールビヨン ローズゴールドはとくに印象的だ。ゴールドのダイヤルはカリ・ヴティライネンが所有するコンブレマイン(Comblémine)工房でつくられ、直線的なギヨシェがきわめて精巧に施されている。トゥールビヨンの特徴的な“ムスターシュ”の細かい縁までもが手作業でギヨシェ加工されている(ちなみに、ジャーナリストのクリス・ホール氏がこれについて言及しているのを見たことがあるが、スイスの時計業界は“ギヨシェ”という言葉の使用を制限し、旋盤を使った伝統的な製法で作られた文字盤にのみ限定するべきではないだろうか。現在“ギヨシェ”という用語は過剰に使用されており、顧客に混乱を引き起こしているように感じる)。

実際、トゥールビヨン ローズゴールドはスースクリプションほど厳密に限定されてはいないが、ダニエル・ロートによれば年間の生産数を50本に絞っているという。とくにギヨシェによる装飾が生産の制約となっているとのことだ。
 スースクリプションモデルからの最大の進化は、サファイア製シースルーバックの採用によりCal.DR001が完全に見えるようになった点だ。スースクリプションは1990年代のオリジナルトゥールビヨンのスースクリプションに倣い、クローズドケースバックを採用していたが、この次世代モデルでは1990年代のトゥールビヨンの後続モデルと同様、オープンケースバックが採用されている。

Cal.DR001はスースクリプションと同じ手巻きムーブメントで、ダイヤル側に1分間で1回転するトゥールビヨンが配置されている。このムーブメントはラ・ファブリク・デュ・タン ルイ・ヴィトンによって開発、組み立てられており、精巧に施されたコート・ド・ジュネーブを特徴とするふたつの大きなブリッジを備えている。またゴールドシャトンやブラックポリッシュ仕上げが美しく映える曲線的なブリッジなど、今では高級時計製造の定番となったディテールも見受けられる。

トゥールビヨン ローズゴールドと昨年のスースクリプション。
仕上げや作り込みは、現代のコレクターが高級インディペンデント(メーカー)に期待する水準にしっかりと応えている。15万5000スイスフラン(日本円で約2570万円)という価格もさることながら、ルイ・ヴィトンという後ろ盾がある以上これは当然かもしれないが、それでもこのウォッチメイキングの素晴らしさは揺るがない。その精巧な仕上げは表側にも施されており、6時位置のワンミニッツトゥールビヨンとともに美しく映えている。
RG製ケースは38.6mm×35.5mmで、厚さは9.2mmとなっている。これは1990年代のオリジナルトゥールビヨンよりも2mmほど薄いのだが、これはDR001のおかげであり、写真では十分に理解できなかったディテールである。ケースのバランスもよくなり、ミドルケースの側面が上下を完璧に二分している。さらに丸みを帯びたラグがわずかに下に傾斜しているため、オリジナルと比べてもつけ心地が格段に向上している(ダニエル・ロートはアーカイブからいくつかのピースを展示し、新作トゥールビヨンとの比較ができるようにしていた)。

私の6.3インチ(約16cm)の手首に装着してみた。
スースクリプションに続いて、トゥールビヨン ローズゴールドでも、ダニエル・ロート、ラ・ファブリク・デュ・タン ルイ・ヴィトン、そして時計師のエンリコ・バルバシーニ氏とミシェル・ナバス氏は、オリジナルのダニエル・ロートデザインを再現しつつ、ほぼすべての面で少しずつ改善を重ねたことを示した。世界中に豊富なリソースがあったとしても、これは称賛に値する成果である。
 とはいえ、復活したダニエル・ロートが純粋に新しいものをどのように生み出すのか、まだ注目している。ブランドは時計師ダニエル・ロートがデザインした未発表の時計が未だにあり、それらが今後のリリースのインスピレーションになるとほのめかしており期待が持てるのだ。またダニエル・ロートならではの独自の美学を求める人々に向けて、もう少し手の届きやすいモデルが今後登場するのではないかとも考えている。

同僚マークの大き目の手首に巻いている。
現時点でトゥールビヨン ローズゴールドはダニエル・ロートとラ・ファブリク・デュ・タン ルイ・ヴィトンの技術力を余すところなく披露している。美しく、今年体験したなかでも特に印象的な高級時計のひとつだ。

ダニエル・ロート トゥールビヨン ローズゴールド。38.6mm×35.5mm径、9.2mm厚、30m防水。5Nローズゴールドケース&ダイヤル。手巻きCal.DR001搭載、約80時間パワーリザーブ、2万1600振動/時(3Hz)、1分間で1回転するトゥールビヨン。ラ・ファブリク・デュ・タン ルイ・ヴィトンが設計・組み立てを担当。カーフスキンストラップ、ピンバックル。限定モデルではないが、ダニエル・ロートによると年間生産数は50本に制限。価格は15万5000スイスフラン(日本円で約2570万円)

関連商品:https://www.hicopy.jp/brand-copy-IP-3.html

3人のエディターが厳選した注目の時計9選

オークションシーズンが到来し(来ないことなどあるのか?)、すでに香港オークションは開催された。3シーズンぶりに、今秋はモナコに行けそうにない。しかしカタログには、モナコ・レジェンド・グループのチームだからこそ現代のオークションに出品するようなロットがたくさん並んでいる。ヴィンテージピースが多く、隠れた名品も数多くあり、自分自身入札を考えなければならないものもいくつかある。
 話題にすべきものがいくつかある。セルピコのサインが入ったピンクゴールドのRef.2526 エクスプローラーダイヤルは、あるグループ(おほん、ベン・クライマーとか)を興奮させるだろう。それと1950年代製のプラチナ製カルティエ タンクがブレスレット付きで1万5000ユーロから3万ユーロ(日本円で約245万~490万円)というのは、滑稽なほど低いと感じる。ブラックスターのダイヤルを持つオイスター パーペチュアル“ギャラクシー”も、かつてロレックスが製造したというのが信じられないほど素晴らしい時計だ。そしてモナコ・レジェンド・グループが最近、コラード・マッタレッリ(Corrado Mattarelli)氏を時計部門の副会長として迎え入れたことも注目に値する。これにより今後のカタログには、さらに多くのヴィンテージウォッチや、ネオヴィンテージ、現代モデルといった多様なラインナップが期待できるだろう。
 カタログを確認するのを手伝ってもらうため、そしてHODINKEEのヴィンテージ愛好家の幅広い好みを反映させるために、同僚のトニー・トライナとリッチ・フォードンに今回のオークションでお気に入りの3点を選んでもらった。

トニー・トライナの選んだ3点
ロット271: ヴァシュロン 4072 クロノグラフ スティールモデル

ロット271: ヴァシュロン・コンスタンタン 4072 クロノグラフ ステンレススティールモデル
 オークションの世界は恐ろしいものだ。そのため、通常はよく知っているモデルか、確かな来歴や信頼できるストーリーが確認できるものだけを見るようにしている。
 ヴァシュロン・コンスタンタンのRef.4072は、私のお気に入りのヴィンテージクロノグラフのひとつだ。基本的には、ヴァシュロンによるパテック 130への回答といったところだが、少しだけ大きくて、あえて言えばより優れた時計だ。サイズが若干小さく、しかもヴァシュロンであるために常に過小評価される運命にあるようだ。
 1938年に発表され、70年代初頭まで生産されたRef.4072は、ヴァシュロンのクロノグラフモデルのなかでも最も長く続いたモデルのひとつだ。コルヌ・ドゥ・ヴァッシュやRef.4178のほうが希少かもしれないが、私はいつでも優れた4072を選ぶ。約30年間のうちヴァシュロンは1178本を生産しており、そのほとんどがイエローゴールドかPGであった。

 コンディションのいいヴァシュロン 4072は、それだけで特別な時計だ。1月には、マイアミビーチ・アンティークショーでピンクダイヤルのPGモデルを掲載したが、今年見たヴィンテージウォッチのなかでもいまだに最高のひとつだ。それはその後すぐに8桁の高値で売れたと聞いている。
 しかしSS製のヴァシュロン 4072は別次元だ。モナコ・レジェンドによると、SSは約250本しか作られなかったため、この時計の見積もりが6万~12万ユーロ(日本円で約980万~1960万円)とされているのも納得だ。ケースはシャープで、ツートンダイヤルも良好かつオリジナルの状態である。ダイヤルの端にかけて少し経年変化が見られるが、防水ケースではなかったこれらの時計にとっては珍しいことではない。
 2017年に、この個体がアンティコルムで流札となったが、ダイヤルとケースが同じままであることが確認できる。変わらず残っていて安心だ。

結果6万5000ユーロ(日本円で約1060万円)で落札
ロット167: ブライトリング デュオグラフ

ロット167: ブライトリング デュオグラフ Ref.766 スプリットセコンド クロノグラフ
 ヴァシュロン 4072と同様、ブライトリングのデュオグラフも、“ダイヤルの名前を変えたらいったいどれほどの価値になるだろうか”と思わせる時計のひとつだ。ヴィンテージのスプリットセコンド クロノグラフは非常に希少で、“パテック”以外で製造していたブランドはごくわずかだ。ブライトリングは1944年にデュオグラフを発表し、その後シリーズからヴィーナス社製クロノグラフキャリバーを搭載したいくつかのリファレンスが登場した。
 アルファ・ハンズ(Alpha Hands)がデュオグラフの調査を行ったところ、各リファレンスや素材を含めてもブライトリング デュオグラフは数十本しか確認されておらず、その多くはオリジナルのパーツが残っていない。今回のSS製3レジスター Ref.766は1944年に製造された初期のモデルで、デュオグラフの生産が始まった時期にあたる。デザインはヴァシュロン 4072に似ており、スティールケースにゴールドのインデックスが施されたシルバーダイヤル、そしてアウタースケールが描かれている。明らかに同じ時代を象徴するふたつの時計だ。
 これだけの特徴を持ちながら、このデュオグラフの見積もりが“わずか”2万~4万ユーロ(日本円で約325万~653万円)だというのは信じがたい。2020年には同じモデルがフィリップスにて25万香港ドル(当時の相場で約345万円)で販売されたため、この見積もりは妥当だと思う。なおそれ以前の2017年にも、ほぼ同じ価格で販売されていた。価格に対してかなり価値のあるヴィンテージクロノグラフだ。

結果5万8500ユーロ(日本円で約955万円)で落札
ロット19: レーシング仕様のロレックス バブルバック

ロット19: ロレックス バブルバック Ref.3131 PG製
 先週ロレックスのバブルバックについて書きすぎたので、今回のカタログで最初に検索したのは当然“バブルバック”だった。イタリアのバイヤーはたいていいいものを数本揃えてくる(ときにはあまりよくないものも混ざっているかもしれないが)。
 私はPGのバブルバックに目がないため、このピンクオンピンクのRef.3131が大好きだ。しかしこのオークションで最も興味深いのは、見た目だけでなくそのストーリー性だ。

 このロレックス Ref.3131は1947年にタイのビラ王子が、ベルギーのグランプリ・デ・フロンティエール(Grand Prix des Frontières)で優勝した際に贈られたものであることが裏蓋の刻印から分かる。60年代や70年代のロレックスやホイヤー、ほかのレーシングクロノグラフももちろん大好きだが、1947年に勝利したドライバーが小さな金無垢のバブルバックを贈られるというその時代ならではの魅力がある。10年後なら、大きなSS製クロノグラフが贈られていたかもしれない。
 しかし1940年代には32mmのPG製バブルバックが“スポーツウォッチ”として選ばれていたため、これがモナコのオークションでお気に入りのロットのひとつだ。

結果1万8200ユーロ(日本円で約295万円)で落札

リッチ・フォードンの選んだ3点
ロット7: ユール・ヤーゲンセン トノー型のファイブミニッツリピーター、1920年代製

ロット7: ユール・ヤーゲンセン トノー型のファイブミニッツリピーター、1920年代製
 最初に紹介するのは、ここで取り上げるなかでおそらく最も“人気”が低いであろう時計だと予想しているユール・ヤーゲンセンだ。これは真の時計愛好家向けで、きわめてクールかつ非常に希少な時計だ。ユール・ヤーゲンセンへの私の愛は、特にこの時期のモデルに対して強い。きっかけはウルバン・ヤーゲンセンについて調べ始めたことだった。ここではその詳細を割愛するが、ヤーゲンセンに関するあらゆることについて知りたい場合はこちらの記事をご覧いただきたい。
 さて、この特別な時計に関して重要な文脈に話を戻そう。ユール・ヤーゲンセンは1919年にエドワード・ホイヤー社に買収された。そう、あのホイヤーである。いわゆる“グループ”の一員として、ヤーゲンセンの名前は超高級の腕時計や懐中時計をアメリカ市場向けに展開するために使用された。20世紀前半のスイス時計製造業の典型的な手法として、ホイヤーはルクルトやヴィクトラン・ピゲからエボーシュを調達していた。この2社は当時パテック フィリップにもムーブメントを供給していたサプライヤーである。このファイブミニッツリピーターウォッチのムーブメントを確認したわけではないが、この時代にこれほど高度なキャリバーを製造できるメーカーはほとんどいなかった。
 この時計自体について言えば、私はとても美しいと思うが、最初に言ったように万人受けするデザインではない。ただ近年はこうした、小振りで初期の伝統的なスタイルが非常に流行している。ケースサイズは35×41mmで、決して小さすぎるわけではない。大きなブレゲスタイルの数字が目を引き、シンプルながらも完璧に仕上げられたユール・ヤーゲンセンの筆記体ロゴがこの時計を私にとって特別なものにしている。もしダイヤルにカルティエと書かれていたら、見積もりは2倍、落札価格はおそらく3倍になっただろう。これは有名ブランド名に頼らず、初期の腕時計市場がどれほど評価されるかを試す興味深いケースになるだろう。

結果5万8500ユーロ(日本円で約955万円)で落札
ロット83: カルティエ トノー プラチナ、1990年代製

ロット83: カルティエ トノー プラチナ、1990年代製
 カルティエといえば、注目を集めるのはロット33の1970年代のホワイトゴールド製クッションモデルだ。このモデルはここ数年で記録を次々と更新している。YGモデルはもともと1万~1万5000ドルであったが、今年6月にボナムズでは7万6600ユーロ(日本円で約1250万円)で落札されるまで急上昇した。この波乱のなか、希少価値の高いWGバージョンはこれまで売りに出されていない。ロット33は見積もりの1万ユーロ~2万ユーロ(日本円で約160~325万円)を大きく上回って、新たな記録を打ち立てることが予想される。
 ただ私が注目しているのは、その50ロット後の時計だ。最近の市場ではヴィンテージのカルティエが注目されているが、トノーはほかのモデルほど注目を集めていない。これは1906年に発表された、カルティエ最初期のウォッチデザインであり、しかも異常に大きなサイズであることを考えると、この市場での評価の低さには驚かされる。とはいえ徐々にコレクターたちが気づき始めているようだ。たとえば、1920年代のプラチナ製トノーが、昨年6月のサザビーズでは2万8800ドル(日本円で約435万円)で落札され、その後新しい所有者にはさらに高額なオファーがあったという噂も聞いた。しかしこの夏は、1980年代や1990年代のトノーがあまり注目されていなかった。5月には、YGモデルがルーペ・ディス(Loupe This)にて7700ドル(日本円で約115万円)で落札されたが、これは非常にお得な買い物だった。
 直近のふたつの結果を見て、このロット83で勝負をかけることにした。先月のフィリップス・ジュネーブ・オンラインで2000年代のCPCP トノー プラチナモデルが2万320スイスフラン(日本円で約355万円)で落札され、見積もりを上回った。そして数週間前のサザビーズ香港では、クォーツムーブメントを搭載したトノー バンブーが33万6000香港ドル(日本円で約650万円)で落札され、大いに注目を集めた。つまりカルティエのコレクターたちはブランドの歴史のなかでも、新しいシェイプや珍しいモデルを探し続けているということだ。トノーは長いあいだ過小評価されてきたが、その歴史は1906年までさかのぼり、1980年代から90年代にかけてはヴィンテージのルックスと現代の高品質な製造技術が見事に融合している。

結果1万8200ユーロ(日本円で約295万円)で落札
ロット161: ロレックス クロノグラフ Ref.3330 スティールモデル、1937年製

ロット161: ロレックス クロノグラフ Ref.3330 スティールモデル、1937年製
 市場分析や、次に何が“注目される”かという予測というより、この1930年代のロレックス クロノグラフ Ref.3330は、ただただ圧倒的に素晴らしい時計だ。1930年代後半から1940年代にかけて製造されたこのオイスターケースではないロレックスのクロノグラフは、美しいだけでなく、2度と出合えないような素晴らしい状態だ。大げさに聞こえたくないので控えているが、実際のところ、1937年製の時計でこれほどの状態のものを見つけるのはとても珍しいことだ。しかも、それが生産本数200本未満のロレックス クロノグラフで、37mmのSSケースにクラヴァンツォラ・ローマのダブルサインが入ったツートーンマルチスケールダイヤルだとしたら? まさに別次元の存在だ。
 ヴィンテージのSS製クロノグラフは今の市場が求めているものではないかもしれないが、こういった時計を探しているコレクターにとってはほとんど問題にならない。全体的なヴィンテージウォッチコミュニティはプレデイトナやロンジン 13ZNのような時計から一時的に目が離れているかもしれないが、本物のコレクターたちは今も変わらず熱心にそれらを追い求めている。しかもかなりの金額を支払って。見積もりが18万〜36万ユーロ(日本円で約2940万~5885万円)と高額なのは事実だが、このレベルの品質を考えるとそれは問題にはならないだろう。このクオリティの時計はほぼ手に入らない。実際、このリファレンスでこれほどの状態のものが市場に出たのは、この個体が2022年に最後に売却されたとき以来のことだ。それより前にさかのぼると、2016年にフィリップスの伝説的なオークションStart-Stop-Resetセールで、SS製の同リファレンスが記録的な価格で落札されたときである。

結果44万2000ユーロ(日本円で約7225万円)で落札

マーク・カウズラリッチの選んだ3点
ロット110: ロレックス デイデイト Ref.6511 スティールモデル

ロット110: ロレックス デイデイト Ref.6511 スティールモデル
 リストを締めくくるなら、ふたつのカバーロットを選ぶことになるけれど仕方ない。それが自分の特権だし、取り上げる価値がある時計だ。最初に紹介するのは、ほとんど“ミーム”化しているような時計だ...SS製のデイデイトなんて存在しないはず。ロレックスはSS製をつくっていないし、理論的にも存在しない。しかしこの時計は少なくともその例外だ。Ref.6511はデイデイトの初代モデルであり、1955年にロレックスが製造したものだ。シリアルナンバー99272を持つこの時計は、スペインのディーラーに納品され、長年個人コレクターの手元にあった。やがてこの時計が発見され、ジョン・ゴールドバーガー(John Goldberger)氏のコレクションに加わり、そこで長いあいだ保管されていた。美しいトロピカルダイヤルに、エイジングで少し黄ばんだホワイトゴールドのベゼルはまさに究極のロレックス デイデイトといえる時計だろう。エスティメートは75万〜150万ユーロ(日本円で約1億2260万~2億4515万円)。

結果119万6000ユーロ(日本円で約1億9545万円)で落札
ロット296: 恐らくユニークピースのパテック フィリップ Ref.2438/1 ピンクゴールド

ロット296: 恐らくユニークピースのパテック フィリップ Ref.2438/1 ピンクゴールド
 パテック Ref.2497について深く掘り下げた際、ねじ込み式のケースバックを備えた防水バージョンであるRef.2438/1にも言及した。さて、今回そのなかでも特別で、市場に新たに出てきたものがある。PG製の2438/1だ。このリファレンスは56本しか製造されておらず、私の調べだとそのうちPGモデルが市場に出たのは5本だけ。しかもそのすべてにドフィーヌ針とバトン型インデックスが備わっている。この時計は、文字盤に“オーバーサイズ”のアラビア数字とブルースティック針を備えたおそらくユニークピースで、これまで知られていなかったモデルだ。この個体は45年間、ひとつのコレクションに保管されており、豊富な資料が付属している。実物は見ていないが、画像で見る限りコンディションは良好で、パテックコレクターにとってはもちろん、この時代の時計を好みながらも少し違ったものを探している人にとっても素晴らしい時計になるだろう。エスティメートは50万〜100万ユーロ(日本円で約8170万~1億6345万円)だ。

結果122万2000ユーロ(日本円で約1億9970万円)で落札
ロット58: オーデマ ピゲ 25726BA パーペチュアルカレンダー ポケットウォッチ コンバージョン

ロット58: オーデマ ピゲ 25726BA パーペチュアルカレンダー ポケットウォッチ コンバージョン
 さて、私はポケットウォッチに目がないのは周知の事実だが、今回はふたつの理由でとくに目を引いた。まず、ポケットウォッチを工場でコンバートして、ラグを追加して腕時計にするという例はあまり見かけない。なぜか? それは今回のように47mmと大きく、つけにくい時計になってしまうことが多いからだ。もっとも袖口の上から着用するなら別の話だが。

袖の上から時計をつけるなんて、許されるのはあの人物だけだろう。
 実はずっと探している特定の時計がある。ただその行方を知りたいだけなのだが。何十年も前、フィアットのリーダーでありスプレッツァトゥーラのサルトリア王、ジャンニ・アニェッリ(Gianni Agnelli)が、クルマの窓から身を乗り出して誰かと話している写真があった。その写真に写る彼の腕にはオーバーサイズの永久カレンダー付きコンバージョンポケットウォッチがあった。この時計もそれに似ているが、アニェッリの時計とは少し違っていて(彼のはリューズは短くてボウがない)、残念ながらその失われた時計ではない。だがそれでもこの時計は十分クールだ。1990年代につくられた25726BAシリーズの第1号で、これを腕時計にコンバートしようとするなんてかなりの自信があったに違いない。しかもフルセットで提供されているため、アニェッリの時計ではないにしても非常に興味深い一品だ。エスティメートは7万〜14万ユーロ(日本円で約1140万~2290万円)。

機械式時計の復権に向かう試行錯誤の10年間

1969年、セイコーのクォーツ式腕時計アストロンの発表に端を発するクォーツ革命の打撃から立ち上がり、1980年代なかばに復活ののろしを上げたスイス時計業界。機械式時計の復権が徐々に現実味を帯び始めた1990年代は、まさに試行錯誤の時代であったという。当時の時計業界をよく知るNH WATCH代表の飛田直哉氏は、ブランドの立場からこう振り返る。
 「私がこの業界に入ったのが、ちょうど1990年。そこから5年間、日本デスコという代理店でセールスの仕事に従事していました。その頃の日本デスコでは、オーデマ ピゲ、ジャガー・ルクルト、エテルナ、モーリス・ラクロアのほか、ハイエンドなクロックなどを扱っていましたが、高級時計の購買層や売れ方も今とはだいぶ違っていて、100万円を超える時計が店頭に並ぶ機会はあまりなく、百貨店の外商で売られることがほとんどでした。当時、売り手も買い手も共通して思い浮かべる高級時計のイメージは、ダイヤモンドがぎっしり埋め込まれた18金の時計だったはずです。ロイヤル オークに関しては、日本ではステンレススティール×イエローゴールド製の小ぶりなクォーツモデルが好まれていました」
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 多くのメーカーが実直なものづくりだけでは時計製造の文化を守ることができない現実を目の当たりにして、各社が本格的に取り組んだのが、新たな経営スタイルやマーケティングの戦略だった。この話題を語るうえでの欠かすことのできない人物が、IWC、ジャガー・ルクルトを再建し、A.ランゲ&ゾーネを復興に導いたギュンター・ブリュームライン、のちにマーケティングの天才と評されるジャン-クロード・ビバーなど、時計をこよなく愛するカリスマたちだ。彼らが業界で頭角を現したことで高級時計の世界における経営戦略は様変わりした。このような流れと並行して日本の高級時計市場も年々成長を遂げ、世界有数のマーケットとして一目置かれるようになる。
 「1994年に日本シイベルへグナー(現DKSH ジャパン)に入社した頃、スイス時計業界は日本の市場を無視できない状況になっていて、さらには今の時代にもつながるヒット作が次々と誕生しました。たとえば、私たちがセールスを担当したブレゲ タイプXX アエロナバルのステンレススティールモデルは、1995年のバーゼルワールドでサンプルを見た途端、必ず売れると確信しました。この前後で、高級時計の古い慣習を打ち破る、いわゆるデカ厚時計の始祖となる時計がいくつか登場しています。振り返ると、90年代は“胎動の時代”だと言え、この時代に起きたさまざまな出来事が今日の高級時計ブームの礎になっているのだと実感できます」

飛躍的な発展を遂げた日本のヴィンテージ市場

 日本が世界有数の時計マーケットとして一目置かれるようになったその背景には、1980年代後半から90年代にかけて起きたヴィンテージウォッチブームがあった。1989年にケアーズを創業する数年前から、川瀬友和氏(現ケアーズ会長)はヴィンテージウォッチのディーラーとして、アメリカを奔走する日々を送っていた。

 「あの時代は英語も話せなければ、時計の情報すらあまりなくて、何もかもが手探り状態。カリフォルニア州のサイプレス、ローズボール、ニューポート・ビーチ、それから競馬場から大学と、フリーマーケットを回ると必ず時計が売られていました。すでにアメリカでは時計を収集することが趣味として広まっていて、ディーラー、コレクター、ブローカー間でのトレードが盛んでした。ただ残念なことに我々日本人はマイノリティな存在でしたから、仮にいい時計が並んでいたとしても相手にしてもらえないときもあり、そのなかで買える範囲の時計を楽しんでいました。ところが、時計専門誌『タイムスペック』を見ながら卸先の時計店を探していたところ、神田にある骨董館のなかに文明館があると知り(のちに青山のキラー通りに移転)、来店したのですが、これまで自分が見てきた時計とあまりにもレベルの差があったことは、相当なカルチャーショックでした」
 「ジム・クラウスという人物との出会いをきっかけに、私たちはハイクラスの時計を扱うショップへと一気に飛躍します。彼は特別なコネクションを持っていて、日本では見ることさえできなかったモデルの仕入れができるようになったからです。1990年代初頭、日本のヴィンテージ専門店でよく売れていたのは、戦後のアメリカで流行した角金と呼ばれる金張りの角型時計。市場が成長すると、オメガ シーマスターやチューダーの通称デカバラと呼ばれるロゴマークのモデルに人気が集中するようになりました。後者はリダン(書き直し)されたダイヤルが無数に出回っていたのですが、それらも含めて、とにかく売れていましたね」
 川瀬氏同様、日本におけるヴィンテージウォッチ黎明期を支えたジャックロード創業者・中山直人氏も思い出深い時計とともに当時を振り返る。

 「当時(1987年のショップオープン当初)は、ブローバなどの角金時計の取り扱いがメイン。アメリカで安く仕入れることができたので、相場よりかなり安く店頭に出せました。それから徐々にロレックスの比重が増えて、幅広いモデルを取りそろえるように。全般的に売れていたのですが、特に手巻きのオイスターデイト Ref.6694はかなりの数が売れたと思います。私も好きで何本も買い集めていた時計です」

 1990年代前半になると、ポール・ニューマンダイヤルの人気に火がついたことをきっかけにコスモグラフ デイトナにブームの兆しが見えて、このほかのプロフェッショナルモデルも注目を浴び始める。

 「話題の中心は、ポール・ニューマンダイヤル。扱い始めた頃は120万円前後で販売していて、今の相場と比べれば格安に感じるかもしれませんが、サブマリーナーなら20万円台で十分に買えましたし、当時のヴィンテージウォッチではトップクラスの値付けでした。それからしばらくして、おそらく雑誌の影響からヴィンテージ全般の勢いが一服して、現行モデルとの人気が逆転します。ちょうどこの時期、俳優の木村拓哉さんがドラマで着用したエクスプローラー Ref.14270の相場が2倍以上に上がって社会現象を巻き起こすほどのブームになりました」
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 1990年代のジャックロードの店頭では、ロレックス以外にもオメガ、タグ・ホイヤー、チューダーなどのブランドが売り上げを支えていた。

 「我々は商売ですから、買い付ける時計はより売れる可能性が高いアイテムを選ぶのが基本です。オメガやタグ・ホイヤーは、今とは売れるモデルやテイストが違っていました。たとえば、スピードマスターは今のような認知度はありませんでしたし、シーマスターのほうがはるかに人気がありました。チューダーの場合は、一部のロレックスのようなプレミアムがつくことはありませんでしたが、コンスタントに売れていた印象があります。全般的に言えることは、名の知れたブランドの時計を手に入れたい、あるいはファッションアイテムとして時計を楽しむという傾向が強かったと思います。大流行したスウォッチが、このニーズに沿うと感じられたので提案したことがあります。それとは逆に、よりマニアックな時計を求めていた年配の方に支持されていたのがパテック フィリップのRef.96。このモデルも根強い人気がありましたね」

 数に限りがあるヴィンテージウォッチの仕入れは、年を追うほどに難しくなる。そこをカバーするために、中山さんはトライ&エラーを繰り返しながら次のヒット商品を探し続けたという。

 「1993年に復興したパネライが日本に入ってきた当初はセールスが厳しかったのですが、2000年代に世界的に評価されて、あれよあれよという間にブレイクしたのを今でも覚えています。どの時代もそうですが、次に人気が出る時計を探すことは簡単ではありませんが、だからこそおもしろい。たらればの話になりますが、ロレックス エクスプローラーⅡのように、1990年代末から2000年代にかけて、今ほどは人気がなかったモデルで個人的に買っておけばよかったと思えるものがいくつもありますよ」

経年変化の差を明らかにすることで新たな価値が生まれる
 改めて1990年代の日本市場を俯瞰すると、この時代を象徴する時計として、ロレックスのプロフェッショナルモデルを外すことはできない。当時のブームが生まれるきっかけとなったコスモグラフ デイトナのポール・ニューマンダイヤルを筆頭に、90年代と今ではセカンダリーマーケットでの評価基準は驚くほど変化している。その道に明るいコミット銀座の執行役員 兼 鑑定士、金子 剛さんは見解を述べる。

 「ひと昔前ならヴィンテージ ロレックスであっても見るからにきれいな状態が人気があって、“トロピカルダイヤル”などの専門用語が飛び交うようになったのは、ここ数年のことです。1990年代に新品で販売されていた5桁のリファレンスも次世代のヴィンテージとして話題になってきはじめており、発売から20~30年近く経過していることから、当時にはなかった経年変化を楽しめる個体が見つかります。ほかにもコスモグラフ デイトナ Ref.16520のように、マニア間でのディテールの研究から評価基準の細分化が進んでいるモデルが増えています」
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 試行錯誤の連続だった1990年代は、同時に昨今の世界的な高級時計ブームの萌芽が見られる時代だった。インターネットの発展から情報共有のスピードが変わったことで世界は一変し、新興の富裕層や投機目的の客層が増えたことで市場規模はかつての数倍に膨れ上がり、いまや一部の時計はアート作品に近い所有価値を持っている。

 この結果が、1980年代に先人たちが思い描いた理想の未来なのかは分からないが、確実に言えることがある。それはかつてかつて日本で起きたヴィンテージウォッチブームが、世界でも最も厳しいといわれる日本のコレクターたちの審美眼を培ったということだ。前出の川瀬氏はこう語る。

 「(ヴィンテージウォッチブームの)当初は実用的かつ手ごろな値段で買えたことがあって、ロレックスのオイスターデイト Ref.6694が売れ筋でした。正常に作動しようとしまいとお構いなしに1本でも多く時計を集めることに熱中していたアメリカのコレクターに対して、日本ではあくまで実用品としてのヴィンテージウォッチが主流。ですから正常に作動しない時計だとクレームが出てしまうので、小売店では保証が付けられるようになったのです。当たり前のような話に聞こえるかもしれませんが、当時はそうではありませんでした」
 1990年代後半に差しかかると、マーケットが成熟していくにつれて、ヴィンテージウォッチの評価基準も変わり、市場から淘汰される時計が出始めた。これについて、氏は次のように述べる。

 「アメリカでは徐々に個体のオリジナリティが重視されるようになり始めて、リダンされたダイヤルの評価が下がり、買い取りになると二束三文。そうなると、日本でも店舗での取り扱いが厳しくなるわけです。単純に不人気であるという理由から今では忘れ去られてしまった時計もたくさんあります。1990年代は玉石混交のマーケットでしたが、極端なプレミアム価格では売られていなかったので好きな時計を選びやすかった。その意味でも純粋に時計を楽しみたい人たちにとっていい時代だったと思います。私もそのなかのひとりで、数々の素晴らしい時計と出合う機会に恵まれました」

日本のヴィンテージウォッチブームを支えた伝説的時計ディーラーたち

 日本を席巻したヴィンテージウォッチブームを支えた時計ディーラーのひとりに、故・益井俊雄氏がいる。その世界では知る人ぞ知る人物だが、時計愛好家といえども彼を知る人はそう多くない。そんな彼は2022年2月、人知れずこの世を去ってしまったが、彼の時計ディーラーとしての足跡を辿ることで日本のヴィンテージウォッチブームの様子がより明確に理解できる。
 1950年、島根県浜田市に生まれた益井氏。都内の大学を卒業後、いくつかの会社で仕事をするも、会社勤めが性に合わなかったという彼は、心機一転、貿易の仕事を志してアメリカ・ロサンゼルスに渡った。1981年2月のことだ。海外雑貨はまだまだ高価だったが、当時の日本では『ポパイ』などの雑誌がこぞって西海岸カルチャーを紹介していたころで、アメリカのファッションや雑貨に対する憧れが非常に強かったという。そこで彼が最初に思い立ったのが、フリーマーケットで古いミシンやタイプライターを仕入れて日本で売るという商売だったが、そこで出合ったというのがブローバの時計に象徴される、いわゆる“角金”と呼ばれるヴィンテージウォッチだ。当時、フリーマーケットにはブローバをはじめとするアメリカの時計ブランドが1930〜60年代にかけて製造したその手の時計が山ほどあったという。そこで益井氏は毎週末になると各地で開催されていたフリーマーケットを回り、この角金時計を買い集めた。
 「当時のフリーマーケットでは、箱付きの未使用品がまとまって見つかることも多かったんです。価格もすごく安くてね。そうやって古い角金時計を50本以上も買い集めました」 と、益井氏は以前の取材で語っていた。彼が帰国を果たしたのは、最初の渡米から3年半以上たった1985年のこと。このとき持ち込まれた多くの角金時計はあっという間に完売した。こうして益井氏はロサンゼルスを拠点に、時計ディーラーとして本格的に活動を始めた。ローズボールフリーマーケットをはじめ、ロングビーチ・アンティークマーケット、パサデナ・シティカレッジ・フリーマーケットなど、週末ごとに開催されているフリーマーケットを回りながら、角金時計を買い集めた。それらは平均で30ドルで仕入れることができオーバーホールには約30ドルかかったが、日本ではかかったコストの倍以上で売れたという。

 角金時計はいくらでも仕入れることができたが、ビジネスが大きくなってくると、より単価の高い時計が必要になるのが必然。しかしフリーマーケットには、ロレックスなどの高級時計はあまり売っていなかったという。一体どこに行けば、目当ての高級時計を買うことができるのか。そんな折に日本の時計ディーラーたちがたどり着いたのが、NAWCC(National Association of Watch &Clock Collector, Inc.)の存在だった。NAWCCは、1943年に時計師のL.D.ストールカップ(L.D.Stallcup)氏がニューヨークの時計学会でメンバーに声をかけたのをきっかけに発足した非営利団体である。当初は50の支部を持つ団体としてスタートしたが、現在までに52カ国で170の支部が設立され、2万1000人の会員を擁する一大組織に発展した。日本にも第9支部(東京)、第108支部(セントラル東京)、そして第131支部(大阪)と、3つの支部がある。NAWCCの会員になる最大のメリットは、会員制のショーに参加できることだ。本来は商談目的ではなかったが、そこには全米中からコレクターや時計ディーラーが参加しており、フリーマーケットでは目にしたことがないような時計や、時計のパーツなどが数多くそろっていたという。しかも価格が非常に安く、まるで宝の山のようだったと、益井氏はNAWCCのトレードショーの思い出をかつて語っていた。

夢中で全米中を駆け回った買いつけの日々
 NAWCCによるトレードショーは、さまざまな州で開催されており、だいたい3泊4日の日程で月2回ほどのペースで全米を回る。そこに出入りしていた日本人は益井氏だけではなかった。時を同じくして、そのトレードショーに出入りをしていたのが元シェルマン代表の磯貝吉秀氏、そして数々の珍しい時計を日本に紹介した仕掛け人といわれている藍川博喜氏(故人)だった。当初はそれぞれ面識はなかったそうだが、当時のNAWCCで日本人の存在は珍しく、彼らはすぐに顔見知りに。特に3人は同い年だったこともあって気が置けない友人として、よく一緒にフリーマーケットやトレードショーを回ったという。
 前出の磯貝氏はトレードショーの思い出を次のように語る。

 「益井さんたちとは本当によく一緒にいましたよ。ショーが始まる前にホテルのロビーで待ち伏せして、時計を見せてほしいとホテルに着いたばかりのディーラーに詰め寄っていち早くチェックしたりね。そうやっていい時計をショーの前に押さえることがよくありました。あるとき、フロリダ州オーランドにあるフロリダ ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートの近くでショーが開催されたことがあったんですが、当然観光地ですから周りにはディズニー目当ての親子連れがたくさんいるんですよ。そんななかで、僕らだけでなく強面(こわもて)のおじさんたちが観光もせずにディーラーを捕まえて1日中ホテルのロビーに張りついて時計を見ているのが不思議だったのでしょう。“ママ、あのおじさんたちは何しているの?”と小さな子どもにけげんな顔をされたこともありました」

 基本的に、磯貝氏はパテック フィリップ、藍川氏はロレックスのバブルバック、そして益井氏はさまざまなブランドのクロノグラフや、ロレックスのプロフェッショナルウォッチ(スポーツモデル)などを商売にしており、それぞれ目当ての時計がうまい具合に異なったそうで、仲のいいディーラーはそれぞれの好みに応じた時計を見せてくれるようになったという。あのディーラーがこんな時計を持っていた、今日はこんな時計が買えたと心を弾ませながらヴィンテージウォッチを買いつけていたと、磯貝氏は当時を懐かしむ。
 前出の川瀬氏も益井氏をよく知るひとりだ。当時は旅行会社のツアーなどはなく、どうやってフリーマーケットに行けばいいのかすらわからない状況だったというが、川瀬氏はボロボロのレンタカーと分厚い地図を頼りになんとかアメリカのフリーマーケットに行くことに。
 「ローズボールのほかにもサイプレス、ニューボートビーチ、バーストーなど、いろいろなフリーマーケットに行きました。そこには必ず時計屋が出展していました。やったー! って意気揚々とお店に行くと、たくさんの時計が並んでいるなかで裏返しになっているものがいくつかあるんです。理由を尋ねると、“これはケンジがHoldしているんだ”って言うんですよ。それもひとつのお店だけじゃなく、行く先々で。“これはケンジのだ”と。“ケンジって誰なんだ? どういう人なんだろう?”と悔しい思いをしたことを覚えています」
 実はこの“ケンジ”を名乗る人物こそ益井氏だった。本名はトシオだが、アメリカではなじみにくい発音だったようで、彼はアメリカでケンジを名乗っていたのだ。行く先々で自分よりも先に目当ての時計を押さえている日本人がいる。その人に負けないように、必死になって自分もいい時計を買えるようになろうと奮い立たせてくれた人物であり、憧れの存在だったと川瀬氏は彼との思い出を話す。

 クォーツウォッチが全盛の時代にヴィンテージウォッチの持つユニークなデザインや、ムーブメントの美しさに価値をみいだし、日本に持ち込んだのが彼らをはじめとする時計ディーラーたちだった。そして磯貝氏や川瀬氏はフリーマーケットやトレードショーで山のようにあった時計のパーツも一緒に買いつけ、ヴィンテージウォッチに新品の時計と同じような修理保証をつけて実用品として売り出したのである。世界的にも極めて異例の試みだったが、こうした取り組みによってヴィンテージウォッチは日本で市民権を得ていくこととなった。
 バブル景気に沸いていた1980年代後半から90年代初頭の日本。その勢いのままに多くのヴィンテージウォッチが日本に持ち込まれた。ブームの当初は角金時計や、ロレックスのオイスターデイトが人気だったのは前述のとおり。ほかにもデイトジャスト、バブルバックなども人気だったが、サブマリーナーなどのダイバーズウォッチは当初、時計をガシガシ使いたい人がそれこそ本当に水に潜る目的で買うようなニッチな存在だったという。当時はリューズガードつきの高年式モデルのほうが価値が高く、今でこそリューズガードのない初期のサブマリーナーはコレクターズアイテムとして数千万円の価格で取引されることも珍しくないが、当初は単なる型落ちのサブマリーナーとして扱われ、800ドルほどで買えたらしい。夢のような時代である。
 

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ジュネーブウォッチグランプリ(GPHG)で入賞した時計のなかから、見逃しがちな4本を取り上げる。

本日は、ベルナルド・レデラー(Bernhard Lederer)氏による今年のクロノメトリー賞に注目する。この賞は、“優れた精密計時性能(特殊なエスケープメントまたは独特の調整装置)が際立ち、検査機関によって公式に認定(ISO 3159規格)された最優秀の時計”に与えられる特別賞だ。
1年ちょっと前、元同僚のローガン・ベイカーのすすめで、ウォッチタイム期間中にニューヨークを訪れていたベルナルド・レデラー氏に初めて会った。ベイカーが執筆したレデラーのセントラル インパルス クロノメーターに関する詳細な記事は魅力的だったが、当時の私には少し難しく感じたかもしれない。しかし、“レデラー氏に会えば有益な情報が得られるだけでなく、とても楽しめるはずだ”というベイカーの説得力ある言葉に背中を押され、会うことを決めた。予想どおり予定の1時間をはるかに超えて会話が続き、それ以来私はレデラー氏の時計に強く引かれるようになった。
 今日は、ジュネーブウォッチグランプリ(GPHG)でクロノメトリー賞を受賞した、セントラル インパルス クロノメーターの最新モデルである“トリプル サーティファイド オブザバトリークロノメーター”を取り上げる。しかしその前に、すべてがどこから始まったのかを振り返る。

私はレデラー氏が“確固たる信念を持つ”時計職人であることを知った。彼に、ほかの時計職人のムーブメントについて率直に尋ねれば、何がよくて何が悪いのかについて正直な意見をたっぷり教えてくれる。特定のムーブメントだけでなくその背後にあるコンセプト自体の欠点についても、レデラー氏が記事のなかで巧みに指摘している部分をベイカーの記事で読むことができる。たとえばナチュラル脱進機について、レデラー氏は脱進機の重量がゼロ(追加のエネルギーを必要としない)である場合にのみ本当に機能すると主張している。まあ、それはまた別の機会に詳しく話そう(前述の記事も参照)。
 レデラーの最新作を理解するためには、彼のオリジナルのセントラル インパルス クロノメーターを振り返る価値がある。しかし、それにはかなり深い専門知識が必要であり、この記事(そしてこの時計)は必ずしも万人向けではないことをご了承いただきたい。セントラル インパルス クロノメーターは、その名が示すとおりブレゲのナチュラル脱進機とジョージ・ダニエルズ(George Daniels)が開発した独立した、2輪のデュアルインパルス脱進機からインスピレーションを得た脱進機を搭載した高精度ムーブメントだ。このムーブメントはCal.9012で、基本モデルとほぼ同じ構造となっている。レデラー氏は今年初め、このムーブメントの小型版を39mmのCIC(セントラル インパルス クロノメーター)用に製作したが、今回のモデルでは大型化されたムーブメントを使用しており、下の写真のように44mmのケースに収められている。

 本作は4番車と5番車のあいだに配置される、ふたつのルモントワールを備えた二重輪列を特徴としている。これにより各エスケープホイールへのエネルギーとトルクが安定して供給され、より安定した動作と精度の向上を実現している。ルモントワールは時間差で動作するよう設計されており、それぞれが10秒ごとに作動しながら、交互に連動して5秒ごとに動力を解放する。この過程を経て、テンプに直接力が伝わる仕組みになっている。

 オリジナルのCICウォッチにはふたつの輪列があるため秒針が2本搭載され、それぞれが逆方向に動いていた。文字盤にはガンギ車や10秒ごとにルモントワールを巻き上げる役割を果たすルーローの三角形(数学や工学の分野で知られる特殊な図形のひとつ)が見える開口部が設けられていた。これはあくまで個人的な好みだが、私はこのデザイン要素があまり好きではなかった。今年初めに発表されたルノー・ティシエ “マンデー”というモデルもこの時計によく似たデザインだが、やはり私の好みには合わなかった。どちらも魅力的な技術を備えてはいるものの、私がこのような時計に求める、クラシックで深みのある魅力を感じることはできなかった。

 新作のレデラー トリプル サーティファイド オブザバトリークロノメーターは、美的にも大きな進化を遂げた、時計製造の魅力的な物語を語るモデルだ。残念ながらこの時計はGPHGの投票過程で予定よりも早く情報が漏れてしまった(ただし、タイムオンリー部門で最終選考に残っている)。だがそのリークがすぐに私の興味を引いた。今回の新作は、優れたムーブメントとドーム型ケースバックを継承しつつ、904Lステンレススティール製ケースを採用している。またデザインも刷新され、頑丈なスターリングシルバー製ダイヤルを備えたことで、44mm×12.2mmというサイズながらスポーティでカジュアルな印象を与え、より装着しやすくなった。これだけでもこのモデルをより魅力的なリリースにしているが、まずはムーブメントに焦点を当てたいため、デザインについてはのちほど触れる。


 この手巻きムーブメントは、ふたつの独立した輪列、ふたつのルモントワール・デガリテ、そしてナチュラル脱進機を搭載しており、時・分そして簡潔なシングルセコンド表示を備えている。レデラーは古典的なスイス時計製造のアプローチに対して、より現代的なムーブメントデザインと仕上げを採用しており、それが非常に効果的に機能している。特にケース内で縦横に広がるブリッジの角ばった形状は、この複雑なアイデアが斬新でモダンな解釈であることを力強く物語っている。このアイデアは長年にわたりさまざまな形で試みられてきたが、レデラー氏のアプローチは独特で洗練されている。


 CIC全体をとおして、この独特なケース構造は私のお気に入りの特徴のひとつだ。ミドルケースのエッジを部分的に切り取ることで、レデラーはムーブメントをさまざまな角度から鑑賞できるようにしている。また裏蓋はネジではなく接着剤で固定されており、そのため修理が難しくなっているように思う。ただレデラーのチーム以外でこの時計を修理してくれる人がいるとは思えない。



 ムーブメントには、限定8本のトリプル サーティファイド オブザバトリークロノメーターのみに刻まれる黄金のコンパスローズが施されている。そのほかの部分にも、美しい面取りやポリッシュ仕上げ、つや消し加工が施されているが、このような時計を選ぶ理由は仕上げの美しさよりも、そのクロノメトリー性能にあると私は思う。


 文字盤側に目を戻すと、ひとつのインダイヤルの内側に経度と緯度の3つの座標が刻まれていることに気づくだろう。この背景には、オリジナルのCICにまつわる物語がある。初期のころ、レデラー氏はスイスの法的要件である公式認定を受けていないにもかかわらず、自身の時計を“クロノメーター”と呼んだことで批判を受けた。しかし、彼がこの時計をクロノメーターと主張するには、それなりの理由があった。採用された脱進機の技術的特性や、彼自身のテストで精度基準を満たしていたことなどが挙げられる。ただしこの時計のテストは非常に難しかった。ダブル輪列と4つのルモントワールを備えた構造のため、ほとんどの標準的なテスト装置では正確に測定することができなかったからだ。
 この課題をいちど解決したあと、レデラー氏は新作ウォッチのテストをさらに高い次元へ引き上げることを決意した。フランスのブザンソン、ドイツのグラスヒュッテ、そしてスイスのジュネーブにあるクロノメトリー検定所(Observatoire Chronométrique)でそれぞれの時計をテストしたのだ。各時計には、これら3カ所の検定所から発行されるテスト証明書が添付されており、レデラー氏がこのプロジェクトに込めた自信がさらに裏付けられている。当初の計画ではこれらの地名をすべて文字盤に記載する予定だったが、グラスヒュッテという名称は保護対象であり、その計画が問題を招く可能性があると指摘を受けた。結果として、この方法は彼の業績を控えめかつ洗練された形で誇示することとなった。

 よりシンプルで視認性の高い針のデザインなど、ほかにも素晴らしいディテールや改良が施されている。針は美しい青焼きが施された2ピース構造で、手作業で曲げられている。ただこれらのデザインにも細かな工夫が込められている。分針の内側にはポインターがあり、6つの目盛りで構成された特別なスケールを指し示す。この目盛りはそれぞれ10秒間隔を表しており、ルモントワールの機構によって針は10秒ごとに動き、そのスケールに正確に一致する。

 レデラーの卓越した時計技術はそのままにデザイン面での一貫性が増し、ブランドの魅力が高まっている。だが新作のトリプル サーティファイド オブザバトリークロノメーターは限定8本のみの製造で、価格は14万6000スイスフラン(日本円で約2460万円)と高額だ。レデラー氏は“ゆっくり、着実に”を信条としており、この新作が彼の数十年にわたる経験を基にした新たな世代のレデラーウォッチの幕開けとなることを期待している。

ORIGINのDNAをモノトーンに昇華、早くも次の5000系モデルがG-SHOCKから発表された。

同モデルはこれまで明確にDW-5000Cの“復刻”に位置付けられたモデルがなかったために、センセーショナルな驚きを持って迎えられた。しかも、限定ではなく“待てば買える”レギュラーモデルとしての展開だ。G-SHOCKにおける5000系とは何か? という定義を示すアイコン的存在が常に店頭に並んでいるというのはG-SHOCKマニアのみならず、初心者にとっても意義深いことだ。現在はまだ在庫が入ってきてもすぐに売れてしまう状況であり、僕もまだ手にできていない(年末年始は原宿と丸の内の直営店を往復していた)のだが、G-SHOCKのファンであるならば1本手元に置いておいて間違いないモデルだろう。

スーパーコピー 代引きその興奮冷めやらぬなかではあるが、早速5000系に属する新作がカシオから発表された。それがこのGW-5000HSである。

GW-5000HSはブラックとホワイトで対となる、モノトーンカラーを5000に落とし込んだ新作だ。なおDW-5000C直系ではなく、厳密にいうと電波ソーラーの搭載により高機能化を果たした2009年のGW-5000の進化版にあたる。そのため、ベゼルはDW-5000Rに見られたフラットなものではなく上下に凸があり、液晶の表示もGW-5000を想起させる。しかし、液晶周りのあしらいはGW-5000からグッとORIGINを意識しており(特にSHOCK RESISTマークの位置は特徴的だ)、本作が初代にオマージュを捧げたモデルであることを物語っている。

また、液晶のガラスに“JAPAN”の文字こそないものの、初代G-SHOCKを生み出したマザーファクトリー・山形カシオで製造を行っており、DW-5000R同様にルーツに忠実な仕様とした。モジュールをカバーするインナーケースもステンレススティールを採用しており、裏蓋も過去の5000系同様にスクリューバックを採用。加えて、ベゼル・バンドなどの主な樹脂パーツには環境負荷低減を掲げる昨今のカシオらしくバイオマスプラスチックを使用した。ちなみにスマートフォン連携は行えないが、タフソーラー、標準電波受信機能の搭載により利便性も十分だ。

山形県東根市にある山形カシオの工場。MR-G、オシアナスなどを手がけるハイエンド専用ライン、プレミアムプロダクションライン(PPL)を擁する。

発売は2025年2月で、ブラック、ホワイトともに4万6200円(税込)での販売を予定している。

ファースト・インプレッション
DW-5000Rのように印象的な赤・黄・青のアクセントが効いたORIGINらしいモデルにもやはり引かれる。しかし日常使いという意味では、モノトーンの潔い配色はファッション的にも取り入れやすいだろう。もちろん、近しいフォルムを持つ5600にも過去にモノトーンのモデルはあったかと思うが、メタルのインナーケースとスクリューバックを持ち、シンプルに時計としてのクオリティも高い5000でこのカラーリングを手にできるというのはありがたい。特にホワイトは斬新だ。これまでブラック基調の重厚なモデルが主軸だった5000において、まったく新しい選択肢となっている。非常に軽やかな印象ながら、手首に乗せるとずしりとした重みを感じるのは少し不思議な感覚だった。しかしこの重みが、インナーケースに樹脂を用いた5600とは明確に異なる存在であることを主張しているようでもある。

カシオの担当者に話を聞いたところ、GW-5000HSは「5000をモノトーンでも楽しみたい」という海外ユーザーの声を参考に開発したモデルだという。(ほぼ見た目も同じで価格も安い)5600ではなく5000を求めるというのは、G-SHOCKの歴史を理解し、時計としての作りのよさに納得できる時計マニアにほかならないと僕は思っていた。そしてそのような声が日本ではなく、海外から挙がってきたというのは少々驚きだったのだ。しかしこの記事でタンタンが語っているように、GW-5000Uなど5000系に属するスクリューバックモデルは米国市場でもカルト的な人気を誇っていたという。G-SHOCKはそもそも日本ではなく海外で火がつき、逆輸入的にブームを巻き起こしたブランドだ。僕らが思っている以上にコアなファンが海外には多いのかもしれないと、GW-5000HSをとおして改めて思った。

そして個人的には、この短期間で5000系に属するモデルが立て続けにリリースされた点に注目したい。フラッグシップとも言えるDW-5000Rが登場したことで、5000の扱いが今後どのように変わっていくのか。関係者への取材をとおして、明らかにしていこうと思う。

基本情報
ブランド: G-SHOCK
型番: GW-5000HS-1JF/GW-5000HS-7JF

直径: 42.8mm
厚さ: 13.5mm
ケース素材: バイオマスプラスチック、インナーケースはSS製
文字盤色: ブラック
夜光: フルオートLEDバックライト(スーパーイルミネーター)
防水性能: 20気圧
ストラップ/ブレスレット:バイオマスプラスチック
追加情報: タフソーラー、標準電波受信機能(マルチバンド6)、ワールドタイム5本(48都市)、100分の1秒ストップウォッチ、タイマー、時刻アラーム5本

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